内面の自由を見出すために
グネル・オルグ著・長谷川涼子訳
自由とは、いつの世も人間の心を夢中にさせてきた概念です。私たちは誰しも自由を望みます。が、はたしていったい何から自由でありたいのでしょうか? 自分の望むものがいかなる自由か、その自由へどうやったら届くのか、私たちは分かっているのでしょうか?
昨今は身体的な自由について語られることが多いですが、ここでは、それよりも重要な「内面の自由」について学び、理解するために、哲学をツールとして使っていくことにします。内面の自由とは、私たちの心、感情、行動の自由のことです。私たちがこの内面の自由を見出そうとするとき、邪魔になるはたらきをするものは何でしょうか。また、自由な考え、自由な感情、自由な行動を妨げる要因は何でしょうか。
自由に関する問題に取り組むためには、人間の性質について知らねばなりません。哲学は、古代ギリシャとローマにおいて、自分自身を知るための方法ととみなされていました。自分自身を知ることによって、自分がどう考え、感じるかを知ることができ、また、内面の自由の障害となるものを認識することができます。人間の性質を見出すことは、私たちが持っていてしかるべき内面の自由を見出すための助けとなるのです。
自由とは、精神と心の状態です。自由はいかなる環境や他人に依存するものでもなく、また孤立もしておらず、不動でもありません。「依存」という概念は、自由を理解するうえで重要な役割を果たします。自立とは、自分に変化を与えうる他人や外的要因から自分を切り離す、ということではなく、自ら考えたり感じたり行動したりするにあたって情況や他人に依存しない、ということなのです。依存に関連して言えば、状況に囚われることで思考や感情が左右されるように、状況・物・性質・経歴・人にどのような形であれ囚われていれば、それは自由の喪失を意味します。
人間は常に自分の内面の様々な力と闘っており、自由とは、そうしたたくさんの力の中の知性と自由意志から生じる動きです。自由とは、これらの力に左右されず、知性と意志に従うことだ。その足かせとなるそれらの力とは、嫌悪、怒り、嫉妬、先入観、心や感情の癖、無意識的行為などです。
そのうちの怒りを例にとってみましょう。怒りが心の中に沸き起こったとき、怒りは私たちの思考と行動を支配しようとします。それが成功すると、私たちは怒りの望む方向へと誘導されてゆきます。そして、その破壊的エネルギーの矛先を他の物や人へ向けることになるのです。私たちは知性と自由意志を持つ存在として、自分の怒りとは反対の立場に立たねばなりません。怒りに操られるのでなく、怒りを制御し、根絶するのです。そのためにはどうすればよいのでしょうか。まず最初に、自分の怒りに気づき、自分の中の破壊的な感情の存在を受け入れることです。そのうえで、怒りに関してもっと知る必要があります。怒りがどのように私たちを覆ってしまうのか? 怒りを育て、力を与えるのはどのような状況か? なぜ怒りは問題解決に全く役立たないのか? 怒りに支配されて行動した末に私たちが後悔するのはなぜなのか? このように、自分の中の敵について知れば知るほど、私たちは有利になってゆき、有効な戦略を立てられるようになるのです。武術は、私たちの内面の敵を打ち倒す力を育てることを目的としたものです。
もう一つ、今度は心の癖を例にとってみましょう。私たちはパターンに沿った考え方をしがちです。創造的で自由な考え方よりもそのほうが楽だからです。こういった心のパターンを形成してゆくのは、社会、宗教、流行、家庭、教育、メディアなどの様々な要素です。刷り込まれた宗教や広告、流行などに沿った思考をするとき、私たちは答えの分かり切った思考パターンを追うばかりで、自由に考える能力を失っています。思考はいつも、パターンの末の同じ場所に行きつきます。思考パターンに押し流されていては、私たちは創造的にも革新的にもなれません。パターンに沿ったままでは、問題の新しい側面や深みを見出すことは不可能なのです。
迷信は、こういった思考パターンの最たるものであり、パターンが強力化して心の中にしっかり根付いてしまったものです。迷信の力は強く、取り除くのはほとんど不可能です。人間の歴史を見てみれば、ヨーロッパの中世時代のように、社会が何らかの迷信に苦しめられていた時代をいくつも見出すことができるでしょう。迷信はまた、様々な種類の恐怖の引き金となり、私たちから自由を奪い去ります。
先入観はどうでしょうか? これは、社会や個人が何らかの経験を思考パターンに変え、それを似たような環境へあてはめるようになることを指します。先入観は、物事をあるがままに見る妨げとなります。物事を見るとき、心の中に埋め込まれた思考パターンのレンズを通してしまうからです。例えば、ある友達にまつわる辛い体験が先入観になった時、他の人々のことも信じられなくなったりします。この先入観は、新しい関係を自由に築く妨げとなります。新しい友達をつくるうえで自由を失ったと言えます。やみくもに先入観に従うことは、注意深くなることとは違うのです。
特定の物事について、世の中の見解が特定の方向に向かうという性質を目にしたことがおありでしょう。これは、社会の知恵に基づいた良識のことではありません。例えば、自動車や地位、休暇が幸福を連想させるからと言って、それらが幸福のもとなのだと思い込むようなことです。私たちの考え方は、自ら進んで自分自身をより深く探究しない限り、メディアや宗教、友人、社会、教育によって刷り込みを受けます。そして、私たちは宗教やメディア、時代、文化などが与える意味合いに沿って物事を考えるようになります。例えば現在、「自由」とは一般的に、身体的な自由と受け止められています。欲しいものを買う自由、行きたいところに行く自由、やりたいことをやる自由などです。もう一つの例は「哲学」で、今日では昔からの意味合いは失われています。本来はシンプルに知恵への愛を意味するのですが、この「哲学」という言葉は、退屈で無駄な事柄、実生活からかけ離れた頭脳ゲームを意味する言葉として使われがちです。友達が世の潮流やしきたりと離れたことを話していると「哲学しないでよ」と馬鹿にしたりします。哲学を人生からかけ離れた異質なものとして見ている限り、そこに時間を費やす必要性は感じられません。
これら自由の喪失は、苦痛に行きつきます。動物の世界を見てさえ、おりの中や狭いスペースの中で生きることが動物にとってどれだけ苦痛か見て取れるでしょう。鳥を自由の象徴としている古代の伝承はたくさんあります。特に、鳥をかごに閉じ込めて飛ぶ自由を奪うことは、私たちが自分の自由に対して敏感であることを思えば、とても不合理なものです。私たちは自由を奪われる辛さを知っていながら、なぜ同じ苦痛を動物に与えるのでしょうか?
自分自身を見出すことは長い旅ですが、しかし私たち全員にとって必要な旅です。この長く辛い旅の中で、哲学は人間にとって最も良き道連れでありました。この旅は自己認識から来るもので、どんな外的要素にも状況にも決して妨げられない、私たちの内面の自由に至る旅でもあるのです。
ギリシャ哲学の有名なモットーを心に刻みましょう。「汝自身を知れ」。この言葉を、私たちの望んでやまない自由を見出すための、人生の指針としようではありませんか。