悩むという問題には、人間誰しも影響されます。
悩みとは不安が 形になったもので、未来に起こりうる出来事を何度もぐるぐると考え込んでしまうことから生じます。これは制御不能になった心が表面化したものであり、その結果、疲労や動揺、注意散漫などが起こります。
誰だって好きこのんで悩みたくはないでしょう。しかし奇妙なことに私たちは、悩まないということを、無関心の表れであるとか、将来への不安を無視する行為とみなす場合があります。
従って、悩むのをやめるためにはまず、「己を知る」という哲学の大原則を身につける必要があります。私たちは何よりも、自分自身の心、つまり間違いなく自分でも分かっていない自分の一部を理解する必要があるのです。
例えばスマホなり工具なり、新しい道具を手に入れた時、最初にやることは、その道具の仕組みや操作方法、何よりも制御方法を学ぶことです。
しかし不幸にして、自分の心の扱いかたを学ぶ際、私たちはこれと同じ努力をしようとはしないようです。私たちのやることといえば、単に心のエンジンをかけて自動運転にするだけであり、ベストな結果に至るための努力は切り捨ててしまいます。
その結果として、心は、本来備わっているはずの美しい音楽を作り出す代わりに、でたらめな音符を吐き出すはめになるのです。
過去多くの文明で、技術開発よりも心理と人間への理解が重視されており、その中において、心は長短取り混ぜた様々な特性からなる複合要素とみなされていました。一般的には、下位の心と上位の心という、心の異なった二つの側面として表現できます。これは例えば密教において、Kama-Manas(欲望の心)とManas(純粋な心)と呼ばれています。
悩むことは、この欲望の心の本能的な働きであり、生き延びることに関係しています。その欲望が現実味のあるものかどうかに関わらず、私たちは自分の欲望のおかげで悩みます。これはある種の悪循環の結果といえます。私たちは自分自身の不穏な考えをあおることで、欲望を何倍にも増大させ、ついには不穏な考えに塗りつぶされてしまい、体も感情もその独裁下に陥ってしまうのです。
この下位の心を制御するためには、上位の心Manasを活性化する必要があります。Manasが関係しているのは知性 intelligence であり、語源は「選ぶ」※です。この語源に立脚してみると、知性とはすなわち賢く選択することを意味します。知性が発達していれば、色々な考えの中から自分や他人にとって助けになるもの、生産的なもの、利益になるものを見定め、また、欲望に突き動かされたもの、利己的なもの、破壊的なもの、不要なものも見定めることができるのです。
知性をもってすれば、ストア派による古代の教えを今に応用することもできます。特にエピクテトスの教えは、自分で制御できる物事と制御できない物事を分けて考えるよう説いています。これは、私たちを悩ませる物事を分析し、自力でどうにかできるか観察するためには有効な訓練です。もしどうにかできるのであれば、ぜひ積極的に動き、良い結果を得るためにやれることは何でもやるべきです。多くの場合、行動とは不安に対する特効薬なのです。
そして、どうにもならないのであれば、悩む意味はありません。悩んだってどのみち何の助けにもならないのですから。
もしも、悩むことにほとんど支配されてしまったような場合には、雰囲気を変えたり、別な事をやったりするのも一つの手です。自然の中を歩く、友達と別の話をする、良い本を読む、心地よい音楽にじっと耳を傾ける、そのほか心がひと息つけるものなら何でもいいですが、できればポジティブで健康的な刺激でもって、疲れ切った心を紛らわせるのです。
つまり、私たちは自分の意識を昇華させ、新しい視点から物事を見ることができるようになるのです。
※訳注:Intelligenceの語源はラテン語 inter(between=~の間で/に)+ legere(choose=選ぶ)