top of page

なぜ私たちの気持ちや考えは通じ合わないのか

デリア・ステインベルグ・グスマン著・長谷川涼子訳

communication.png

人生にはたくさんのパラドックスがあります。その一つとして、通信が大量・手軽に行われる今の世の中で、どうも私たちはお互い意思疎通がどんどん難しくなってきているらしい、ということが挙げられます。

 

昨今、私たちは地球の裏側の出来事を数時間以内に、もしかすると数分以内に知ることもできます。ニュースは全力疾走で私たちのもとに届けられます。ラジオやテレビ、新聞、雑誌は、大小さまざまなニュースに見栄えよく陰影や色をほどこし、広めてゆきます。私たちはまるで、テレビ画面やラジオに話しかけたり、有名人が満載の新聞やら雑誌グラビアと会話したりしているような具合です。

 

一方、私たちは、友達や隣人の魂の中で今現在起こっていることについては、知らないと言っても過言ではありません。自分自身が何を感じ、何を考えているのかもはっきり分からず、なおまずいことに、お互いの意思疎通に困難を覚えるようになっているのです。

 

人々は、自分が誰かを愛していると考えており、また自分が物を考えていると信じていますが、自分の感覚や意見が本物だと確信しているわけではありません。その証拠には、短期間で自分の意見や仲間をころころと変えていく人があちこちで見られます。また、時として家族の結びつきが「必要だから」「そういう習慣だから」という理由で維持されることもありますが、そこでは本当の愛情や、愛情の表明が抜け落ちてしまっています。お互いの感情の結びつきを自然に表す言葉やしぐさが抜け落ちてしまっているのです。

 

特別な場面のための社交辞令やら、決まり文句などは別として、人間同士のやり取りは感情的衝動にまですり減りつつあります。そういったやり取りは、衝動そのものと同じ不安定さでもって行き交い、明滅します。

 

人生やその社会的・政治的・文化的・宗教的等々の側面に関する私たちの考えは、はかない流行に従って移ろいます。私たちは、「変人」と思われたくないがために、その流行に乗り、風見鶏のように自分の意見を変えてゆくのです。

 

私たちは自分の考え方を明快に説明することができません。なぜなら、私たちはちゃんと考えるということをしていないし、また辛うじて実際に考えたわずかのものさえ誰かからの借り物だからです。

 

こうして、コミュニケーションの世界の中で、私たちは他の人々から切り離されたままになっているのです。メディアによって私たちは表現能力を失い、人間関係はその状態の中で始まり、終わってゆきます。人工的な刺激に時間が費やされ、その代わり、周りの人と安らぎや会話を分かち合うひとときが犠牲になってゆきます。

 

愛の言葉を映画やテレビのキャラクターの口からよく聞くせいで、私たちは自分の愛する人々へその言葉をかける必要性を感じなくなったものです。こういったフィクションの世界の力のため、私たちの表現の潜在能力が失われていっているのです。

 

つまり、どういうことが起きているのでしょうか。

 

問題は二つあります。まず、知恵ある意見と感覚を持てていないこと(なぜなら、私たちはこれらを育むことを教わっていないのです)。そして、自分に欠けているもの・自分の中ではっきり理解できていないものを自力で説明できないこと。

 

大小さまざまなイデオロギー面での失敗、そして日常生活における感情面での失敗。これらは警告のサインです。自分の意見や感覚が何の土台も骨組みも持っておらず、不安定であるという意味です。

 

コミュニケーションの欠如は、自分自身や他人をちゃんと知らないまま何かを言ったりしたりする不安定な状態から起こるのです。

 

今こそ、感覚の世界を再評価し、それを知恵として認識する時ではないでしょうか。各々の知恵ある感覚に、私たちの人生におけるふさわしい役割を与えるのです。

 

正の感情を育てるも負の感情を制御するも無視するも私たち次第です。同様に、それらの感情に従って考える、分析する、選択する、決断する、といった能力にもう一度光を当てることも私たち次第。何より私たちは、世の多数派の意見に引きずられることなく、自分自身で論理的に判断することを学ばねばなりません。

 

自分の感覚を正しく表現することは初めの一歩です。真に何かを感じたならそれを表現しないでいるのは不可能ですし、同様に、真に何かを考えたならそれに従って行動しないのは不可能です。コミュニケーションの世界には、何についてやり取りすべきかを知っている人間同士のコミュニケーションが欠かせないのです。

哲学者のご紹介のページへ

名言のページへ

bottom of page