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満たされた人生を送るために

デリア・スタインベルグ・グスマン著・長谷川涼子訳

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私たちは自らに尋ねることがあります。人生とは何か? 哲学者にとって、生きることとは何を意味するのか?

人類は、この1、2世紀に渡る特殊な生活スタイルによって、私たちは無意味な品物の数々と引き換えに、単純で重要な価値を忘れてしまい、そのことに苦しめられてきました。人生とは何かを定義づけるのがこれほど難しいのは、そういうわけなのです。

言うまでもなく、人生とは単に生きた身体を持ち、その生理的欲求を満たすだけのものではありません。そうした欲求はほとんど制御が効かず、そのままでは私たちは人生の大半をその奴隷として過ごすことになります。人生とは、それより遥かに大きな意味を持つものです。

また、人生とは社会の中で傑出した地位を確立するだけのもの、というのも違います。名声や称賛は賞のかたちをした幻に過ぎず、それを与える人々自身もまた幻影に浸されているからです。今日存在したものが、明日にはさしたる理由もなく消えてゆきます。今日何かの様式を高らかに褒め称えた人々が、明日には同じ情熱でもってそれを非難するのです……

人生とは、権力や富だけのためのものでもありません。それらもまた、賞賛や非難と同じ運命から逃れられないためです。それらはイルミネーションのように移ろい、その中に正統なものや確かなものを見出すことは出来ないと言っても過言ではありません。

人の愛情を得ることに執着する人にも同じことが言えます。特に、その人がそれを持ち続ける方法、深めてゆく方法を知らない場合はよく当てはまります。家名を上げること、伝統や名跡を受け継いでいくこと、これらはみな価値のあることですが、しかし誰かの人生を完全に満たすものでしょうか? 私たちは時として、他のあらゆるものに新しく正統な意味を与えうる「もっと踏み込んだもの」への、隠された、深い欲求を抱きはしないでしょうか?

一部の人々は自らの学問に引きこもり、存在の意味をそこで探し求めています。知ることは他者より優れるための方法の一つですが、それは他のどの方法も同じです。また別の人々は、長い退屈な時間をやり過ごそうと、逃避のために暇つぶしを求めています。内面の空虚さから逃れる助けになるものが目の前にあれば何でもいい、というわけです。

哲学者にとっては、生きるということは上記のどれより遥かに上位に来るものです。生きるというのは学校、それも地上のどれより完璧で難しい学校です。身体、感情、思考は、この特別で重大な試練の数々を乗り越えるのに役立つ道具です。時間は偉大な教師であり、内面の自我は自分の生涯に渡って経験を積み上げる弟子なのです。

この視点から見ると、外部の環境は相対的な価値を持つに過ぎません。その価値は私たちの進歩にふさわしい状況をもたらすのに必要ですが、環境は必要不可欠なものでも決定的なものでもありませんし、環境が私たちを私たちたらしめているわけでもありません。このような目で環境を見れば、環境はもはや強迫観念ではなくなり、やり方次第で制御・変更できるものとなるのです。人間が自らの人生の主人になり始めるのは、ようやくそこからなのです。

生きるということは、自分に対して、そして他人に対して責任ある振舞いです。哲学者は考え無しに生きることはできません。哲学者の行動は単なる肉体の生存を超えて、目的と論理を持たなくてはならないのです。この人生の学校においては、あらゆるものが理由、意味、目的を持っているのです。

生きるということは、自分に対して、また他人に対して寛容さを持つです。つまり、学ぶことによって私たちを助けるということです。これまでのあらゆる成果、あらゆる学習を分かち合い、世界全体(つまり我々の属する人類全体)への絶え間ない恵みとすることです。

生きるということは、いま生きているということです。これは秘密ではなく、言葉遊びでもありません。生きているということは、生きている宇宙やそのエネルギーの一部として自らを認識し、それを使ったり、それへ共鳴したりするということです。哲学者はこのやり方で、人生を永遠の活動とし、その中で完璧なゴール(それ自体も永遠のものです)を目指すことができるのです。

元記事URL↓
https://library.acropolis.org/leading-a-fulfilling-life/

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