世の中の対立する概念はみなコインの裏表に過ぎず、生と死も例外ではありません。ホルヘ・アンヘル・リヴラガが著書『テーベ』で述べたとおり、それは「生と死の両軸の間をうつろう唯一の命」なのです。生は、明白で目に見えることもあります。また別の時、生はあいまいで目に見えません。これについて、自然の中で分かりやすい例は木です。夏の間は葉を繁らせ、花や実をたくさんつけます。冬になると、そうした様子はほとんどなくなり、まるで死んだように見えます。しかし、春になればそれが再び甦ることは、私たちが経験上知っているとおりです。
人間も同様です。私たちは生まれ、成長し、死へ向かいます。しかし自然の法則によれば、恐らく本当は私たちは死なないのです。恐らく、私たちの意識が内なる次元へたどり着くことはほとんどなく、死の状態で「冬」の期間を過ごし、生まれ変わって新しい春を迎えるのです。このように、魂は経験と完璧を求め、肉体を得たり失ったりを無数に繰り返しながら続けていくのですが、このことは事実上、普遍的な教えです。これは東洋哲学に限らず、ピタゴラスやプラトン、プロティノスなど多くの西洋哲学者にも支持されています。
つまり、命は連続した繋がりであり、その中で意識は目に見える世界と見えない世界を切れ目なく移動します。この視点に立つことにより、生と死を論理的に見る一つの方法、つまり新しい哲学が確立します。これは全く新しい考え方というわけではなく、今日では一般的でなくなった考え方であり、もっぱら「世俗的」か「宗教的」かで考えられがちなものです。
この新しい哲学の土台は、物質より魂に重きを置くことであり、身体を魂の乗り物と見なすことです。その結果、生きる目的とは、最大限の心地よさの中でできるだけ長く生きることのみならず、魂それ自体が完璧を目指すべく、魂に必要な経験を積ませることです。
身体上の心配から、リスクを避けて安全地帯に留まるというのは自然な性質です。新しい生命の哲学では、充実した人生を送ることを示唆します。つまり、あらゆる欲望を好きに追求するのでなく、この世界における私たちの魂の本質を進歩させることは何でもやること、自分の可能性に気づくこと、喜びをもって社会に加わりその中で生きることへの自覚も意味するのです。したがって、この哲学にはリスクも想定されますが、それは無謀という意味でなく、自らの存在の限界を無限へと拡張するために安全地帯を出てゆくということなのです。
新しい死の哲学は、新たな段階の現実への入り口としての死に関する自然な理解が土台となります。この新たな段階の現実は、古代の様々な文化において「神々の世界」とされています。目に見えない、そして(あらゆる古代文化における)「高位の」世界を恐れるのでなく、受け入れて待ちわびるのです。ちょうど、明日が来るのを前向きに、冷静に待ち受けるのと同じことです。明日何が起こるのか正確には分からなくとも、何らかの機会や経験が訪れるだろうことを、私たちは知っているわけです。
最後に、ギリシアの哲学者ソクラテスの例をあげることにしましょう。生きている間、彼は強烈な生き方と優れたユーモアセンスを貫きました。彼は勇敢であり、ウイットに富んでおり、生命力に満ちていました。同時に、自分の使命――アテネの人々の魂を無気力状態から目覚めさせること――に真摯に取り組んでいました。
ソクラテスは、当時の主流であった考え方に反論した結果、死刑となりました。牢で自らの運命を待つ間、彼は生と死、喜びと苦痛について、友人や弟子に語りました。彼は、魂の前世や死後の魂の生について、友人や弟子たちに論理的な説明を行った後、自分が現世でやってきたのと同様、すでに他界した偉大な人々に会う――そして彼らの行動や意見について質問する――のを楽しみにしていると述べ、話を終えました。
ソクラテスはこの態度を通じて、彼にとってこの世と次の世界にはほとんど違いがないこと、信仰か世俗かの二択の問題ではないということを示しました。この二つの選択肢の間に、そしてそこを超えたところに、人間は「自然の哲学者」として無理なく立つことができるのです。
元記事URL
https://library.acropolis.org/a-new-philosophy-of-life-and-death-2/